第七語「アントニオ猪木」

10月1日に元プロレスラーで元参議院議員のアントニオ猪木さんが亡くなりました。今月は既に別のお題で原稿を書き上げていたのですが、この訃報を受けて急遽内容を変更しました。私にとっては子供の頃のヒーローであり、何度もプロレス会場に足を運び生で観戦したものです。参議院議員時代には新横浜駅の改札口でスーツ姿の猪木さんを見かけましたが、その姿はとても大きく初めて見たわけでもないのに嬉しさと驚きでその場に立ち尽くしてしまったのをよく覚えています。

闘病(この言葉がこれ程似合う人もいないのでは)している姿を積極的に公開されていたことには賛否の声がありました。「強い猪木であって欲しいから弱々しいところは見たくない」と「自らの弱さを他人に見せることのできる猪木の強さをを見たい」という相反する二つの意見はどちらも理解できるものでした。

亡くなった後、暇を見ては現役時代の試合をたくさん観ました。その姿は何十年経っても色褪せるものではなく、本当にこの人は亡くなったのか?という錯覚に落ちてしまいそうでした。同じ感覚は2年半前にも経験しました。それは、私にとってのもう一人のヒーローである志村けんさんが亡くなった時です(奇しくも猪木さんも志村さんも2月20日生まれ)。

「人間死んだら終わり」そういう風に言う人がいますが、あれは間違いです、嘘です。猪木さんも志村さんも死んで終わっていません。何故なら、子供時代に影響を受けた私が今ここにいるからです。つまり、私の何パーセントかはアントニオ猪木と志村けんからできているのです。

あなたには身近で亡くなられた人はいますか?その人もまた死んで終わりではありません。あなたという一人の人間を作った人であり、あなたの一部分でもあるのです。そして、姿や形が無くてもこれから先、あなたに数えきれないほどの「縁」を紡いでくれます。その尊い存在を「仏」といい、あなたは共に歩んでいるのです。

浄土真宗本願寺派の僧侶であった中西智海師はこんな言葉を残されました。

人は去ってもその人のほほえみは去らない。
人は去ってもその人のことばは去らない。
人は去ってもその人のぬくもりは去らない。
人は去っても拝む掌(て)の中に帰ってくる。

私は著名でもなければ、影響力があるのでもなければ、何か取り柄があるわけでもありません。そんな私であっても自分のいのちを終え、姿形が亡くなった後にもきっと私の何かが残ると思います。生前誰かに伝えた言葉なのか、行動して成したことなのかどういうものかはわかりません。「猪木が残したもの」「志村が残したもの」というように名前が付いているわけでもありませんが、タンポポの綿毛がどこか飛んで根を下ろし花を咲かせるように、私の「名もなき遺伝子」が誰かの、何かの一部分となるのです。そして、忘れてはならない事は私自身もまた、何百億、何千億という先立って往かれたいのちから名もなき遺伝子を受け継いでいます。つまり、「姿形(肉体)がある事が重要(=死んだら終わり)」という考えは私達にとって大切なことを見えなくさせてしまうのです。

これからも元気が欲しい時には猪木さんの試合を、笑いが欲しい時には志村さんの動画を観ることにします。行くぞ!イチ!二ッ!サン!アイーン!