第二十二語「雪に耐えて梅花麗し」

今年は暖冬と言われていましたが、どこも雪が少ないと言われています。皆さんの住んでいる地域はどうでしょうか?

今回の一語は西郷隆盛が残した「耐雪梅花麗(ゆきにたえてばいかうるおし)」です。私がこの言葉を知ったのは、広島東洋カープやメジャーリーグで活躍した元プロ野球選手の黒田博樹さんが座右の銘として注目されたことでした(私は子供の時からカープファンです。東京出身です。)。意味は「梅の花は冬に雪の冷たさに耐えたからこそ春に麗しく咲く」です。

ネットで検索しますとこの句を取り上げているサイトがいくつもあります。しかし、その多くは「困難に打ち勝つ」「努力の大切さ」を説いています。黒田さんがこの句を座右の銘としてきたように、プロ入り後の黒田さんはとにかく努力、努力の連続でした。それがその後の結果に繋がった事は言うまでもありませんが、そのような厳しい努力を続けて困難を乗り越えていくということは誰にでも出来る事ではありません。

中学生の女の子がこんな詩を新聞に投稿していました。

「逃げ」
逃げて怒られるのは人間ぐらい
ほかの生き物たちは本能で逃げないと生きていけないのに
どうして人は
「逃げてはいけない」
なんて答えにたどりついたのだろう

私は雪に耐える事も、雪から逃げる事もどちらが正しいとは言えないと思います。その人、その時の状況によって選択をすればいいのだと思います。ただ一つ思う事は、どちらの選択をしようとも「雪」には意味があるということです。その雪の意味を問うていくことが人としてのあり方であり、人としての成長があるのだと思います。苦しい事は誰でも嫌です。でも、その苦しい事に意味を見出した時、例えば、「この困難は私に今まで気づかなかった事を教えてくれた大切な縁なのだ」と思う事ができれば、忍耐であっても、逃避であってもどちらでもいいのです。

最近私がよく思う事が二つあります。一つは「人生とは極めてシンプルである」ということです。シンプルであるにも関わらず、難しくしているのは自分自身ではないだろうか?考えすぎたり、必ずしも当てになるとは限らない自分の知識や経験を頼りにしすぎているが故に返って複雑にしてしまっているのではないだろうか?

そして、もう一つは「出来ない事」と「嫌な事」は分けて考える必要があるという事です。嫌だけどやり遂げる事で自分のこれからの人生の糧になるならば極力やるべきだと思います。しかし、出来ない事を我慢してやるのは負担でしかないからやらない。出来ない事を引き受ける事こそ無責任だと思います。

この二つの事柄に共通している事は「自分自身としっかり向き合う」と言う事です。一秒一秒変化しているからこそ、向き合って「今」の自分を知る事が大切です。その上で目の前の雪に耐えるのか、避けて温かい場所に移動するのか決めればいいと思います。

もうすぐ春はやってきます。春を迎える準備をしましょう。

第二十一語「キャッチボール」

先月、父の命日を迎えました。亡くなって30年。時間が経つのは本当に早いものです。私の人生においては父のいない時間の方が長いのですが、私という人間の形成において父の存在が大きかった事は言うまでもありません。

父も僧侶でしたが亡くなった時には、私はまだ学生であり僧侶として心構えがあった訳ではありません。にもかかわらず、この30年間に父が亡くなった事を寂しいと思った事が一度もないのです。勿論、様々な経験や苦労をした人生の先輩として、もっと色んな話を聞いておけば良かった。酒が好きだった父と一緒に晩酌をすれば良かったという思いはありましたが、今はそれも無くなりました。

父との思い出はいくつもありますが、私の中で今でも大きな「出来事」として残っているのは「キャッチボール」です。小学生だった私はある日、父とキャッチボールをしました。自分の存在を認め褒めてもらいたくて、出来るだけ速い球を投げようと思いきり腕を振って投げました。しかし、そのボールは父の遥か上を飛んでいったのです。若い頃の病気が原因で足の悪かった父は、足を引き摺りながらも一緒懸命にボールを追いかけました。その姿を見た私は、おそらく人生で初めてであろう「申し訳ない」という気持ちになったのでした。ボールを拾って戻ってきた父は私に優しく言いました。

「キャッチボールっていうのはな、相手が取りやすいボールを投げる事が一番大事なんだ」

あの時の言葉、あの時の光景は今でもハッキリ覚えています。

父や友人と遊べない時は一人で壁当てという「一人キャッチボール」をしていました。壁に向かってボールを投げ戻ってきたボールを捕る。ただそれを繰り返すだけですが、その一人キャッチボールも侮れませんでした。「捕りやすいボールはどうやって投げればいいか?」自分なりに試行錯誤したものです。一人キャッチボールは私に大切な事を気づかせてくれました。

「強いボールを壁に投げれば強いボールが返ってくる」
「優しいボールを壁に投げれば優しいボールが返ってくる」

ボールを「言葉」、壁を「相手」に変えてみて下さい。「自分勝手」「独りよがり」の自分の姿が見えてきませんか?

キャッチボールという言葉は、会話やコミュニケーションの比喩として使われますが、父とのキャッチボール、一人キャッチボールは今現在の私の人との接し方に影響を与えています。未だにキャッチボールの下手な私は、言葉を扱う僧侶として反省する事ばかりですが。

冒頭に、「父が亡くなった事を寂しいと思った事は一度もない」と書きました。それはきっと今でも父とキャッチボールをしているからだと思います。

「相手が捕りやすいボールを投げるのが大事なんだ」

親孝行らしい事は何一つ出来なかった私ですが、それでも父は今日も私に優しく語りかけてくれます。