第十四語「平均寿命」

気がついたら、この「一語大福」もスタートをして1年が過ぎていました。いつもご愛読頂きありがとうございます。実は、数年前に不定期で一語大福のようなコラムを書いておりました。その中で一番購読されたものが今回のタイトルである平均寿命に関する内容でしたが、日本人がどれだけ平均寿命に関心があるかを知るきっかけになりました。

まず、平均寿命という言葉の定義について、ほとんどの人が誤解をしているという衝撃の事実を話したいと思います。2022年の日本人の平均寿命は、男性が81.47歳、女性が87.57歳です。この数値を「2022年に亡くなった人の平均年齢」と思っていませんか?違います。これらの数値は「2022年に生まれた人の平均余命(あとどれくらい生きるかという期待値)」です。つまり、今このコラムを読んでいるあなたは2022年生まれという事はあり得ないので、この数値を直接当てはめる事に意味はありません。ですから、自分が生まれた年の平均寿命を参考にしなければなりません。もう一度言いますと、「平均寿命=その年に生まれた人の平均余命」です。以下は厚生労働省が発表の平均余命の推移です。ご自身が生まれた年の0歳のところがあなたの平均寿命です。

厚生労働省 平均余命の年次推移

例えば、今年1955年生まれの人が亡くなったとします。年齢は68歳です。おそらく多く人は「亡くなるのが早いよなあ」と思うかもしれませんが、上記の表から読み取ると1955年生まれの人平均寿命は男性63.60歳、女性67.75歳ですから平均以上という事になります。

平均寿命の算出にあたっては、その時の医療、科学、食糧の各状況、疫病の流行の有無に左右されるので、現実とはかなりギャップがあるようです(コロナウイルスの流行は平均寿命の減少の一因となりました)。その他にも平均余命、健康寿命という言葉があり、人間の余生に対する関心と欲望は尽きないものです。

こういった指標はどれも「平均値」でしかありません。何より重要なことは「この平均値を私が超えるという確定要素は何一つない」ということなのです。私たちは自分が平均値より上にあるかどうかで安心を得ようとします。しかし、この平均値は日本人全体がどうかという問題であって、この私がどうなのかは問題にしていません。にもかかわらず、私たちは自分にとって都合のいいことは「含む私」であり、都合の悪い事は「他人事」なのです。

「過去を追うな。未来を願うな。」

お釈迦様の言葉です。過去はやり直すことはできません。未来はまだ来ていません。私達は現在を生きているのです。過去を反省に現在を生きるのです。未来を全く考える必要がないわけではありませんが、未来は現在の積み重ねであることを忘れてはいけません。

仏教というのは、この私が対象です。他の誰かの話ではありません。病気になり、年を取り、死んでいかなければならない私を対象としています。「遠い未来にそうなるかもしれない」という漠然とした考えは、私たちを平気で失意のどん底に突き落とします。

今日は自分の残りの人生で一番若い時です。この時間は二度とやってきません。さあ、何をしますか?今することがあなたの未来となります。

第四語「お経」

仏教=お経というのは誰もが思うイメージだと思います。しかし、あの呪文のような文言は一体何なのか?そう思う人もまた多いでしょう。

お経は「お釈迦様の説法」です。サンスクリット語で「スートラ」と呼ばれるお経は「縦糸」を意味します。地球儀の縦の線を「経線」というのをイメージすればわかりやすいと思います。お釈迦様は自らの教えを「文字」で残しませんでした。お釈迦様が亡くなった後に弟子達が集まり、それぞれが聞いた説法をまとめ上げて文字化したのがお経です。その数は「八万四千の法門」と言われるほどです。(実際に八万四千あるのではなく、多数という意味です)日本の仏教の宗派は、拠り所とするお経の違いによって成立しているのです。例えば、浄土真宗は「浄土三部経(仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経)」、日蓮宗は「法華経」という具合です。

日本の仏教は大乗仏教と呼ばれ、インドから中国、朝鮮半島を経て日本に入ってきました。その過程でお経は中国語(漢字)にあてられたのですが、それをそのまま日本語読み(呉音読み)にしているので、聞いても意味がわからないのはその為です。(第一語「南無阿弥陀仏」にて「南無阿弥陀仏」の言語別の読み方を示しています。ご参照ください。)ですから、お坊さんはお経の一部分を現代語でわかりやすく解説をする「法話」をするのです。別の言い方をすると、お坊さんの仕事は、お経(=仏教)があなたの人生にどう関係があるかを繋げることなのです。お経は「縦糸」と言いましたが、縦糸がしっかり張っているからこそ、横糸(私の人生)を張る事ができるのです。

「お経を聴くと眠くなる」そういう方もいるでしょう。私は読経は「音楽」の一つだと思っています。そもそも音楽の意義とは何でしょう?「音を楽しむ」のもそうですが、読経の場合は「音によって楽になる」ものでもあるのです。つまり、読経によって気持ちが晴れる、落ち着くのも効果の一つです。かと言って、葬儀や法要中にずっと寝られてしまう事を手放しで喜べませんが。望ましいのはお坊さんと一緒に読経する事です。読経はお坊さんの専売特許ではありませんので。

仏教は死んだ人の為にあるのではありません。今を生きているあなたの人生を明るくする為にあるのです。お経は難しく感じるかもしれませんが、法話は極力わかりやすく話します。是非、お寺に足を運んで法話を聞いてみたらいかがでしょうか?八王子浄苑を管理する誓願寺では毎月第三木曜日の午後1時から法話会を開いています。お気軽にご参加ください。