第二十三語「ルーティン」

言葉は時代と共に常に流行り廃りを繰り返していますが、その過程で外来語が日本語として定着していく事も珍しくありません。この「ルーティン」も以前に比べて日常で聞くようになりました。「日課」という意味のこの言葉ですが、主にスポーツを通して広まったように思います。選手が朝起きてから試合までの間をいつも同じ事をして過ごす事によって平常心を維持し良いプレーが出来ると言われています。

仏教には、仏教徒が守るべき自分自身への決まり事があります。これを「戒」と言います。出家して戒を守って生きていく人の名が「戒名」です。戒は昔のインドの言葉であるサンスクリット語で「シーラ」と言いますが、本来は「習慣」という意味があります。つまり「厳しい修行をし、『努力』して自分を高めていく」というよりは、「日々の生活の中で『習慣化』していく」のが戒なのです。そのような意味では、前述のルーティンと似ているところがあるかもしれません。

日本人は「努力は美徳」と思いがちですが、実際には努力を継続して結果を出すというのはそう簡単ではありません。それは努力が得てして無理が伴うからなのです。例えば、痩せたいと思っている人がジョギングを始めたとします。しかし、それまで運動をしていなかった人がいきなり始めるとなるとそう簡単にはできません。さらにちょっとキツイことをすると変な満足感に襲われます。その時はとても気分がいいのですが無理をしているのですから続くはずがありません。これが三日坊主の原因なのです。

人間ですからすぐに結果を出したいと思うのは理解できます。しかし、それは現実的ではないので諦めてください。もう一度言います。そんなに都合よくはいかないので諦めてください。何かを成し遂げる為には時間が必要なのです。近道を探そうとするのは止めた方がいいです。何故ならそこで見つかった方法は「近道」ではなく「逃げ道」であることがほとんどで失敗するからです。

これを大前提としてどうするか?出来る事をやるのです。先ほどの様に、痩せたいのならいきなりジョギングではなく、歩くことから始めるのです。それも10分くらいから始めるのです。きっと物足りなく感じるでしょう。それが大切です。前述の様に満足感を得るほどやると危険です。物足りなさが次の機会に繋がるのです。電車やバスを使っている人なら一つ前で降りて歩くというのもいいかもしれません。「どれだけやるか?」よりも「どうやったら『習慣化』できるのか?」を大切にして下さい。ご飯を食べるのも、歯を磨くのも努力してやっている人はいません。これらは習慣化されているから毎日しているのです。「ローマは一日にして成らず」です。そして習慣化されある程度の期間が過ぎれば何らかの結果が出ているでしょう。もし、結果が出ていてなければその方法が間違っていたのです。別の方法を探して下さい。結果を出した人はこうやって様々な失敗を繰り返しているのです。

最後に。「行動は21日で習慣化」されると言います。3週間、あなたが続けられる事をやりましょう。

第十五話「妻」

著名人や企業のSNSで妻の事を「嫁」と呼び物議を醸すという事が度々見られます。これは、「嫁とは息子の妻を表す言葉であって自分の妻を指す言葉ではない」というのが批判の理由のようです。自分の妻を嫁と呼ぶのは一部の土地で見られる呼び方で、私のイメージとしては関西のお笑い芸人がテレビで使うことで広まった気がします。

また、最近では「妻を嫁と呼ぶ問題」のほかに、他人の配偶者を「ご主人」「奥さん」と呼ぶ事に対する批判もあるようです。その理由としては「夫が何故『主の人』なのか?妻が『家の奥』にいる訳ではない。」という事だそうです。ですから「ご主人、奥さん」の代わりに「夫さん、妻さん」と言う人もいると聞きます。

そのような考え方がある中で私はと言いますと、一般的には「妻」と使っていますが親しい友人と話す時には「ヨメ」を使っています。それは妻という言葉を使うには場の雰囲気からして堅苦しくなってしまうからです。また「ヨメ」とあえてカタカナで書いたのは、「平安時代に妻を褒める言葉として『良女(ヨメ)』が使われた」という記述を読み、尊敬の念を込めて使っているからです(今の私があるのは間違いなく妻のおかげです)。

私は「嫁呼び」が批判されるならば、夫を旦那と呼ぶのもアウトだと思っています。というのも、旦那という語の語源は昔のインドの言葉・サンスクリット語の「ダーナ(布施をする人)」であり、「夫が妻の為にお金を稼いでくる」という意味では相応しくないと言えます。(ダーナは、英語の「寄付をする」という意味のドネイト(donate)や「臓器提供者」という意味のドナー(donor)の語源であると言われています)ちなみに私の妻は、友人と話をする時には私の事を「旦那」と呼んでいるようですが、それに対して何とも思わない私は時代遅れなのでしょうか?

また、嫁という漢字が「女+家」ということから時代にそぐわないという考えもあるようですが、漢字の成り立ちにまで話が及ぶと、「男」は「田を耕す姿」、「女」は「両手を前に付いてひざまずく姿」を意味し、これもダメという事になってしまいます。

私は夫婦間の呼び方は当人が納得しているのであれば、第三者がとやかく言う話ではないと思っています。多様性が叫ばれいてる社会だからこそ「こういう言葉を使うのは男尊女卑だ」という考え方はむしろ多様性の否定になるのではないでしょうか。人はそれぞれの考えを持っているのですからそこは尊重されるのが多様性社会です。「自分が正しい」とばかりに相手を頭ごなしに否定するあり方はただ無用な争いを生むだけです。それに他人のプライベートに関心を持つのも無粋だと思います。このコラム書いている今、マスコミは連日芸能人の不倫を報道しています。「面白おかしく報道し、それを視聴者が喜んで観ている」他人の事に首を突っ込んで下品だなあと思います。勿論、これは私の意見であり他人に強要するものではありませんが、皆さんはどう考えますか?