第二十六語「老い」

誰もが避けて通る事の出来ない事というのはいくつかありますが、その一つが「老い」です。「歳は取りたくないなあ」こんな言葉を聞く事は珍しくないことであり、誰もがそう思う事柄であります。

まず、私の「老い暦」を紹介します。私が初めて本格的に老いを感じたのは28歳の時でした。ある所で勉強していた私は20代前半の人達とは明らかに体力や精神力が劣っている事を気付かされました。さらに学生の頃の勉強方法では頭に入らず、何倍ものの時間を費やしても成果が上がりませんでした。

若い頃は視力が良かった私ですが、30代後半から見え方に変化が出てきて38歳の時に老眼と診断されました。40代になるとアレルギーを発症し、花粉症、じんましん、喘息になりました。そして50歳前後で更年期による不調(気力、集中力が欠如しモヤモヤ感がある)が出てきました。更年期障害は女性だけのものではありません。もし同じような症状がある方で辛い方は医療機関で診断を受けるとよいでしょう。

こんな私ですが、意外にも老いという事に対してあまり否定的には考えていません。それはどうしてかというと、「避けて通れないものに逆らっても仕方がない」と思っているからです。私は旅行が好きです。30代くらいまでにはとにかく朝から晩まで旅行先で活動的に動いていました。例えて言うならば、午前と午後に観光名所を二つずつ計4ヶ所巡る計画を立て、場合によっては昼食を削ってでも行きたい場所に行く、そのような旅行スタイルでした。50代になった今は午前と午後に1ヶ所ずつのんびりと。疲れたらカフェでゆっくりしながらそこから見える景色や住む地元の人々の様子を眺める。そこには若い頃の旅行では経験できない、気づかなかった事にたくさん出遇いました。その時その時に「今しかできない」「今だからできる」旅行を楽しんでいます。訪れる事の出来なかった観光名所は…次回の楽しみとします。縁があればまた来ることが出来るでしょうから。

世の中にはアンチエイジング(老化に逆らう事)という言葉が踊ります。「年齢より若く見られる」多くの人はこうありたいと思うかもしれません。しかし、私に言わせればそれはどうでもいいことなのです(そう思う人を否定する訳ではありませんので、念の為)例えば、60歳の人が55歳に見られようが、40代に見られようがその人が60歳であるという事実は何にも変わりません。いくら外見が若く見られても「若さ」では40歳の人に逆立ちしても勝てないのです。しかし、勝つ必要はないのです。30歳には30歳の生き方が、50歳には50歳の生き方が、70歳には70歳の生き方があります。その時の自分に合った土俵で戦えばいいのです。老いても病気であって気力がなくても、その時に自分に最適な生き方があります。それは他人と比較すべきものではありません。過去の自分と比較すべきものでもありません。悲観する事でもありません。あなたはあなたなのです。歳を取る事を楽しむ生き方はいかがでしょうか?

第二十五語「母の日」

5月は母の日があります。毎年思う事なのですが、母は偉大でありますから感謝の気持ちを表すのは当然の事なのですが、それに比べて父の日の扱いが小さい感じがします。父もまた偉大であります。

昨年の母の日にSNSでこんな投稿が話題になりました。中学三年生の息子さんが母の日に花をくれたのですが、その花が仏花(菊の花)だったそうです。親として傷つけず間違いを正す方法とタイミングがわからない、というものでした。その投稿に対して様々な意見が寄せられていました。

私がこの投稿を見て思ったのは、母親として「素直に嬉しい」と思ったのであればそれでいいと終わる話だと感じました。仏花である事はこれから成長する過程で自然に覚えることであり、それを正すより誰かの事を思う気持ちがある息子さんを誇りに思ってあげる事の方が大切だと思います。

仏花とは仏様にお供えする花の事ですが、そもそも仏様とは何でしょう?この話を細かくし始めたらいくら時間があっても足りないのでこの場では割愛しますが、「私を真実へと導いてくださる尊い存在」と解釈していただければいいかと思います。ただ、これだけは申し上げておきますが「仏様=死者」ではありません。ですから、もし前述の息子さんがお母さんの事を仏様のように思っていたとしたら、仏花をプレゼントしたのは正しかったと言えるでしょう。

「仏花なんて縁起でもない」そう思うかもしれませんが、実は母の日に菊を送る習慣がある国もあります。というのも、菊の学名はクリサンセマムと言い略してマムと呼ばれますが、母親を表すマムと発音が同じだからです。そして忘れてはならない事は、カーネーション自身は「母の日の象徴だ」と思いながら咲いているわけでもなく、菊は「私は仏花である」と思って咲いているわけではありません。「カーネーション=母の日」「菊=仏花」と決めたのは人間のご都合なのです。私達は何かにつけて「常識」という言葉を使いたがり、この言葉を基準に物を考えています。では、法要中の私語は常識でしょうか?非常識でしょうか?私は法要は厳粛な場ですの私語は控えていただきたいと思っていますが、我慢できない方は残念ながら少なくはありません。おそらく御本人は自覚がないと思われますので、酷い場合は読経を止めてでも注意させて頂いております。仏花が仏様へのお供えであると同様に、参列者一人一人もまた仏様への大切なお供えであるのです。

仏花に関してもう一つ。ネットで検索しますと「仏花は造花でも良い」という記述をいくつも見ますが、私は賛同はしません。「大切な事はご先祖様を思う気持ちです」というフレーズと共に造花を認めているサイトもありますが、「ご先祖様を思う気持ちが造花という作り物でいいのか?」と思えてしまいます。生花は枯れていく事から仏教の本質の見方である「諸行無常」を表しています。ですから仏花は生花である事が望ましいです。いつも生花をお供えする事は難しいですが、もし「面倒くさいから」という理由で造花を供えるならばそれはもう仏花ではありません。

八王子浄苑では供花やお墓の掃除の代行を行なっております。ご質問、お申し込みは管理事務所までお気軽にお電話ください。