第八語「写真撮影」

今や誰もが持つ携帯電話。保有していない人を探す方が難しいくらい生活必需品として定着しました。また、スマートフォンの登場によって電話やメールだけのものだった携帯電話の役割が大きく変わりました。中でもカメラ機能は「一億総カメラマン社会」を生み出すほど誰もがお手軽に写真を撮る事ができるようになりました。

葬儀や法事でスマホを手に写真を撮る光景も珍しくはありません。勿論、それ自体は何ら問題はないのですが、その「お手軽」さ故の疑問を感じる事があります。

写真撮影とは良くも悪くも「撮る」事に集中するので、その瞬間は周りに対しての配慮が疎かになりがちです。スマホのシャッター音が鳴れば参列者の方はそちらに気が取られますし、墓前での法事では良い構図で取ろうとして他のお墓の中に入り、場合によって墓石の上から撮影する人もいます。撮影に夢中になってご自身が法事に参列している意識が薄くなるのはとても残念な事です。

撮り鉄と呼ばれる鉄道写真愛好家の迷惑行為が度々ニュースになります。彼らも同様に撮る事に夢中になって周りが見えていないからこそトラブルになるのです(多くの撮り鉄は良識があるものと理解しています)。「お手軽」「便利」というのは、必ずしも良い事ばかりではありません。苦労しない分、思慮に欠けるのです。

それよりももっと重要な事、皆さんに考えて頂きたい事は、葬儀における「遺体の撮影」です。様々な考えや思いがあるのは承知していますが、私個人の意見としては、遺体を撮影する事には2つの理由から反対です。一つ目は、「故人の意思」の問題です。私達は自分以外の人を撮影する時には必ず撮影の承諾、つまり「本人の意思確認」をします(集合写真に収まるということは、そこに写る人の承諾を得ているのです)。しかし、亡くなった人の意思は確認することができません。ましてや、それが「遺体の写真」となるとなおさらです。その立場になって考えてみるとわかりやすいのですが、「自分の遺体」の写真を撮られて嬉しい人はいないのではないでしょうか。

二つ目は、「写真の流出の可能性」です。特にスマホで撮影した場合は、消去しない限り常に流出の懸念があります。一度、外部に流出してしまうと取り返しのつかない事になります。実際にネット上には多くの遺体の写真があり、自分のお手軽な行為によって自分の大切な人の尊厳を傷つけてしまいかねないのです。残念ながら、ここまで考えて遺体の撮影している人はほとんどいません。「大丈夫、大丈夫」と他人事なのです。

多くの火葬場では、共用スペースでの写真撮影が禁止されています。それは、写真撮影そのものを快く思わない人も少なくはなく、配慮がなされているのです。身内を亡くし悲しみにくれている人にとって、写真を撮られることは勿論のこと、カメラを構えられることすらも嫌だと感じる人もいます。火葬場の従業員も含めて、多くの方が特別な思いでいる場所では周りの人々のプライバシーを普段以上に考える必要があります。

写真という「形」に残したい思いは理解できますが、形に残さないと忘れてしまうほど亡くなった人に対する思いは小さいものではないと思います。むしろ、元気だった頃、楽しかった時の笑顔をあなたの心に焼き付けてはいかがでしょう?今撮ろうとしている写真は本当に必要ですか?撮りっぱなしで閲覧されない写真ではないですか?大切なのは「記録」よりも「記憶」なのです。

第七語「アントニオ猪木」

10月1日に元プロレスラーで元参議院議員のアントニオ猪木さんが亡くなりました。今月は既に別のお題で原稿を書き上げていたのですが、この訃報を受けて急遽内容を変更しました。私にとっては子供の頃のヒーローであり、何度もプロレス会場に足を運び生で観戦したものです。参議院議員時代には新横浜駅の改札口でスーツ姿の猪木さんを見かけましたが、その姿はとても大きく初めて見たわけでもないのに嬉しさと驚きでその場に立ち尽くしてしまったのをよく覚えています。

闘病(この言葉がこれ程似合う人もいないのでは)している姿を積極的に公開されていたことには賛否の声がありました。「強い猪木であって欲しいから弱々しいところは見たくない」と「自らの弱さを他人に見せることのできる猪木の強さをを見たい」という相反する二つの意見はどちらも理解できるものでした。

亡くなった後、暇を見ては現役時代の試合をたくさん観ました。その姿は何十年経っても色褪せるものではなく、本当にこの人は亡くなったのか?という錯覚に落ちてしまいそうでした。同じ感覚は2年半前にも経験しました。それは、私にとってのもう一人のヒーローである志村けんさんが亡くなった時です(奇しくも猪木さんも志村さんも2月20日生まれ)。

「人間死んだら終わり」そういう風に言う人がいますが、あれは間違いです、嘘です。猪木さんも志村さんも死んで終わっていません。何故なら、子供時代に影響を受けた私が今ここにいるからです。つまり、私の何パーセントかはアントニオ猪木と志村けんからできているのです。

あなたには身近で亡くなられた人はいますか?その人もまた死んで終わりではありません。あなたという一人の人間を作った人であり、あなたの一部分でもあるのです。そして、姿や形が無くてもこれから先、あなたに数えきれないほどの「縁」を紡いでくれます。その尊い存在を「仏」といい、あなたは共に歩んでいるのです。

浄土真宗本願寺派の僧侶であった中西智海師はこんな言葉を残されました。

人は去ってもその人のほほえみは去らない。
人は去ってもその人のことばは去らない。
人は去ってもその人のぬくもりは去らない。
人は去っても拝む掌(て)の中に帰ってくる。

私は著名でもなければ、影響力があるのでもなければ、何か取り柄があるわけでもありません。そんな私であっても自分のいのちを終え、姿形が亡くなった後にもきっと私の何かが残ると思います。生前誰かに伝えた言葉なのか、行動して成したことなのかどういうものかはわかりません。「猪木が残したもの」「志村が残したもの」というように名前が付いているわけでもありませんが、タンポポの綿毛がどこか飛んで根を下ろし花を咲かせるように、私の「名もなき遺伝子」が誰かの、何かの一部分となるのです。そして、忘れてはならない事は私自身もまた、何百億、何千億という先立って往かれたいのちから名もなき遺伝子を受け継いでいます。つまり、「姿形(肉体)がある事が重要(=死んだら終わり)」という考えは私達にとって大切なことを見えなくさせてしまうのです。

これからも元気が欲しい時には猪木さんの試合を、笑いが欲しい時には志村さんの動画を観ることにします。行くぞ!イチ!二ッ!サン!アイーン!