第二十一語「キャッチボール」

先月、父の命日を迎えました。亡くなって30年。時間が経つのは本当に早いものです。私の人生においては父のいない時間の方が長いのですが、私という人間の形成において父の存在が大きかった事は言うまでもありません。

父も僧侶でしたが亡くなった時には、私はまだ学生であり僧侶として心構えがあった訳ではありません。にもかかわらず、この30年間に父が亡くなった事を寂しいと思った事が一度もないのです。勿論、様々な経験や苦労をした人生の先輩として、もっと色んな話を聞いておけば良かった。酒が好きだった父と一緒に晩酌をすれば良かったという思いはありましたが、今はそれも無くなりました。

父との思い出はいくつもありますが、私の中で今でも大きな「出来事」として残っているのは「キャッチボール」です。小学生だった私はある日、父とキャッチボールをしました。自分の存在を認め褒めてもらいたくて、出来るだけ速い球を投げようと思いきり腕を振って投げました。しかし、そのボールは父の遥か上を飛んでいったのです。若い頃の病気が原因で足の悪かった父は、足を引き摺りながらも一緒懸命にボールを追いかけました。その姿を見た私は、おそらく人生で初めてであろう「申し訳ない」という気持ちになったのでした。ボールを拾って戻ってきた父は私に優しく言いました。

「キャッチボールっていうのはな、相手が取りやすいボールを投げる事が一番大事なんだ」

あの時の言葉、あの時の光景は今でもハッキリ覚えています。

父や友人と遊べない時は一人で壁当てという「一人キャッチボール」をしていました。壁に向かってボールを投げ戻ってきたボールを捕る。ただそれを繰り返すだけですが、その一人キャッチボールも侮れませんでした。「捕りやすいボールはどうやって投げればいいか?」自分なりに試行錯誤したものです。一人キャッチボールは私に大切な事を気づかせてくれました。

「強いボールを壁に投げれば強いボールが返ってくる」
「優しいボールを壁に投げれば優しいボールが返ってくる」

ボールを「言葉」、壁を「相手」に変えてみて下さい。「自分勝手」「独りよがり」の自分の姿が見えてきませんか?

キャッチボールという言葉は、会話やコミュニケーションの比喩として使われますが、父とのキャッチボール、一人キャッチボールは今現在の私の人との接し方に影響を与えています。未だにキャッチボールの下手な私は、言葉を扱う僧侶として反省する事ばかりですが。

冒頭に、「父が亡くなった事を寂しいと思った事は一度もない」と書きました。それはきっと今でも父とキャッチボールをしているからだと思います。

「相手が捕りやすいボールを投げるのが大事なんだ」

親孝行らしい事は何一つ出来なかった私ですが、それでも父は今日も私に優しく語りかけてくれます。