第三十一語「大谷翔平」

今年も素晴らしい活躍でした。もうこの一言以外に言葉が見つかりません。この人は一体どこまで進化していくのでしょうか?驚きとワクワク感しかありません。

あるお寺の掲示板にこんな言葉がありました。


「私は大谷翔平になれないが、大谷翔平も私にはなれない」

さて、この言葉を見てあなたはどう思ったでしょうか?
「当たり前じゃないか!」
「大谷翔平は私になんかなりたいはずがない」
「そもそも大谷翔平は私のことなんか知らない」

質問を変えましょう。もし、あなたが大谷翔平になることが出来るとしたらなりたいですか?私はというと、なりたいとは思いません。何故かというと「大谷翔平の人生は中身も大谷翔平であるから歩むことができる」のです。中身が私ではあそこまで自分を律しパフォーマンスをすることは無理なのです。きっと常にプレッシャーの中で生き続けるのは苦しいです。私にとってはちっとも幸せとは言えないと思います。

私が大谷翔平の人生を歩むということは、私が私でなくなるということであります。今日まで歩んできた自分の人生が素晴らしいものだったと胸を張って言うことはできませんが、私が私でなくなるということは、家族も友人も今まで出遇った人々も全てなかったことになるのです。それは嫌です。

私達は誰かの人生に憧れることがあります。でもそれは、「その人の見ることのできるいい部分しか見ていない」のです。その人が見えない所でどれだけ努力をし、辛い思いをしているかはわかりません。私達が見ることのできる大谷翔平はマスコミが報道する事柄だけで、それは彼のほんの一部分でしかありません。

逆に大谷翔平があなたの人生を歩むことが出来たとしても、あなたの人生がより良いものになる保証はどこにもありません。あなたの人生はあなたにしか歩むことはできません。あなたの人生はあなたが適任なのです。

「自分の人生は今日までいいものではなかった」そう思うならば変えることができるのもあなたしかいません。大谷翔平にはできないが、あなたにはできることがあります。生きるということはそういうことなのだろうと思います。「容姿がいい」「財産がある」「能力がある」これらが幸せの条件ではありません。むしろ、これらが不幸を招くこともあります。何かを手にいれることが幸せでありません。本物の幸せとは私がこの身で感じるものです。

あなただからできる、あなたしかできない道を歩んでいきましょう。