第十語「坊主丸儲け」前編

過激なタイトルですが、今月は確定申告の月でもあるので税金の話をしたいと思います。「宗教法人=不課税」であることは知られていますが、そこにはたくさんの誤解があります。長くなりますので2回に分けて書きたいと思います。

「坊主丸儲け」という言葉の語源をご存知でしょうか?

「魚三層倍、呉服五層倍、花八層倍、薬九層倍、百姓百層倍、坊主丸儲け、按摩掴み取り」

という江戸時代の言葉遊びから来ています。これは原価に対する売価の事で、魚屋は3倍、呉服屋は5倍、坊主と按摩は仕入れがないという事です。実際にそうだったという事ではなく、「魚=3、呉服=5、花=8、薬=9、百姓=100、坊主=丸坊主、按摩=掴み取り」というダジャレというか語呂合わせなのです。

閑話休題。まず、大前提となるのは二つ、宗教法人であるお寺の動産、不動産は全て僧侶個人の所有物ではないということ。そして、『不』課税なのは宗教法人であって僧侶個人ではないということです。(『非』課税ではありません。その違いについては割愛致します。)「お坊さんは税金を払わなくていいですね」このような言葉を何度か言われた事がありますが、間違いです。僧侶は宗教法人から給与をもらっている給与所得者であり、当然ながら皆さんと同様に所得に応じた所得税と住民税を納付しています。

では、宗教法人が不課税というのはどういうことかと言いますと、宗教活動(=公益事業)による収入(お布施など)に対する税、宗教活動に利用される建物(本堂など)の固定資産税、などが「公益性」(=配当や残余財産の分配を行わない=不特定多数の者の利益の実現)の観点から不課税とされています。宗教活動以外の事業は収益事業と呼ばれ、その収入は宗教法人であっても課税対象です(例えば、駐車場の賃貸収入など)。

お布施はお寺の収入であり僧侶個人の収入ではありません。(教義上では、「僧侶に対する布施行」という捉え方もありますが、少なくとも日本の税制上ではお布施はお寺の収入です)もし、僧侶がお布施を自分の懐に入れれば横領になります。「お布施を誤魔化せるんだろう!」そのように言う人もいますが税務署を甘くみてはいけません。宗教法人と言えど、いやっ、宗教法人だからこそ厳しく税務調査を受けます。宗教法人であるお寺が不課税であることで、私個人が何か恩恵を受けたと感じたことは一度もありません。不課税であろうが、お寺の収入が増えようが、私の給与には何の影響もないのです。

「宗教法人に課税しろ」という声を度々耳にしますが、具体的に何に対して課税をするのかという声はあまり聞かれません。そこには発言者の感情論と誤解によるものが多いように思います。課税がされないのは政治家、政党と宗教団体との繋がり云々を言う人がいますがそれは関係ありません。あくまで法律上の問題で宗教法人を含めた公益法人は不課税なのです(前述の通り「公益性」の為、課税できない)。

仮に宗教法人に課税をした場合、考えられる事象を挙げてみます。
・宗教法人に課税すると、他の公益法人の医療法人、学校法人、社会福祉法人なども課税対象となる。
・固定資産税をかけると多くの神社仏閣が維持できなくなる。(例・法隆寺がコロナ禍による拝観料収入の減少で境内施設の維持が困難になりクラウドファンディングで維持費を集めた)
・京都市のように神社仏閣の多い自治体では宗教法人からの税収の割合が大きくなる為、それによって宗教法人の行政に対する影響力が強くなり政教分離に反することになる。
・宗教法人に不課税を止めると、約18万ある宗教法人に対して一般企業と同様に様々な補助金等を出す必要があり却って政府や自治体の支出が増える、という試算がある。

※【補足】 宗教法人=宗教団体ではありません。宗教法人格を持っていない宗教団体やお寺も存在し、この場合はお布施であっても所得税がかかります。不課税は宗教法人に適用されるものです。また、今回の取り上げた話は、一般的な宗教法人の税、およびそれに対する行政の法律上の姿勢についてであり、現在社会問題となっている宗教団体の事案の是非ではありません。

(続きは次回に)

第九語「年齢」

明けましておめでとうございます。突然ですが、この挨拶と同時にあなたの年齢が一つ増えたのをご存知ですか?これが「数え年」という考え方です。まず、数え年の話をする前に、現在私たちが使っている「満年齢」について考えてみます。

満年齢は生まれた時を0歳、誕生日で1歳となります。あっ、「誕生日で」と書きましたが、法律上(民法)では「誕生日の前日が終わる瞬間」に歳を取ります。つまり、4月1日生まれの人は、3月31日の午後12時(午後11時59分59秒の1秒後)という事になります。少しややこしい話ですが、私たちは「午後12時=午前0時」と考えますが、法律上では「午後12時」が前日、「午前0時」が翌日になります。

余談ですが、これに基づいた考え方が学校教育法に反映されており、「4月1日生まれは3月31日午後12時に歳を取る事から前年度生まれ」であり、4月2日生まれから学年が変わるのです。法的には4月1日が入学日ですが、小学校一年生の場合、一年でこの日のみ生徒全員が6歳なのです。

一方で、数え年においては生まれた時が「1歳」とし、1月1日に歳を取る年齢の数え方です。つまり、人によって「1歳から2歳までの長さが違う」と同時に、誕生日に関係なく全ての人が1月1日に歳を取るのです。冒頭の「『明けましておめでとう』で歳を取った」のはこういう意味です。

数え年は日本以外にも中国や韓国で使われています。以前に韓国人と話をしていて年齢を聞いたら「韓国式でか?」と聞き返されました。後でわかったのですが、この韓国式というのは数え年の事であり日本以上に日常でも使われているようです(厳密には韓国には3通りの年齢を表す方法がありますが割愛します。また、法律が改正されて今年6月から満年齢に統一されることになりました。)。

数え年はまた、仏教の考え方が反映されています。起算日(命日)を1とするので、初七日は6日後、49日は48日後、3回忌は2年後となるのです。(「1周」忌ですから、この法要のみ満1年で行う)

年齢に関してもう一つ。位牌や墓石に入れる年齢に「享年」と「行年」がありますがこの違いは何でしょうか?元々の意味を簡潔に言いますと、享年=生きた年数、行年=何歳まで生きたか、ということです。享年は年数だから「享年100」のように歳は付けないとか、享年と行年は数え年と満年齢の違いであるなど言われていますが、現実には「享年100歳」という記述も多く見られ、享年も行年も満年齢と数え年が混在していますので必要以上に気にすることはないでしょう(葬儀の位牌を書く僧侶の考え方次第と言えます)。ただ、個人的な意見では、行年は「何歳まで娑婆世界で修行したか」という意味があるので、より仏教的な気がしています。

最後になりますが、年始の挨拶である「明けましておめでとう」という言葉には深い意味があります。私達は当たり前のように新年を迎えたかのように思っていますが、その一方で、この新しい年を迎えたくても迎えることのできなかった人達がたくさんいます。私のいのちが自分の意思ではどうにもならないという事実に目を向け、様々な支えの中に新しい年を迎えることが出来た事に感謝し、その意味を問いながら歩んでいきたいものですね。