第十五話 「妻」

著名人や企業のSNSで妻の事を「嫁」と呼び物議を醸すという事が度々見られます。これは、「嫁とは息子の妻を表す言葉であって自分の妻を指す言葉ではない」というのが批判の理由のようです。自分の妻を嫁と呼ぶのは一部の土地で見られる呼び方で、私のイメージとしては関西のお笑い芸人がテレビで使うことで広まった気がします。

また、最近では「妻を嫁と呼ぶ問題」のほかに、他人の配偶者を「ご主人」「奥さん」と呼ぶ事に対する批判もあるようです。その理由としては「夫が何故『主の人』なのか?妻が『家の奥』にいる訳ではない。」という事だそうです。ですから「ご主人、奥さん」の代わりに「夫さん、妻さん」と言う人もいると聞きます。

そのような考え方がある中で私はと言いますと、一般的には「妻」と使っていますが親しい友人と話す時には「ヨメ」を使っています。それは妻という言葉を使うには場の雰囲気からして堅苦しくなってしまうからです。また「ヨメ」とあえてカタカナで書いたのは、「平安時代に妻を褒める言葉として『良女(ヨメ)』が使われた」という記述を読み、尊敬の念を込めて使っているからです(今の私があるのは間違いなく妻のおかげです)。

私は「嫁呼び」が批判されるならば、夫を旦那と呼ぶのもアウトだと思っています。というのも、旦那という語の語源は昔のインドの言葉・サンスクリット語の「ダーナ(布施をする人)」であり、「夫が妻の為にお金を稼いでくる」という意味では相応しくないと言えます。(ダーナは、英語の「寄付をする」という意味のドネイト(donate)や「臓器提供者」という意味のドナー(donor)の語源であると言われています)ちなみに私の妻は、友人と話をする時には私の事を「旦那」と呼んでいるようですが、それに対して何とも思わない私は時代遅れなのでしょうか?

また、嫁という漢字が「女+家」ということから時代にそぐわないという考えもあるようですが、漢字の成り立ちにまで話が及ぶと、「男」は「田を耕す姿」、「女」は「両手を前に付いてひざまずく姿」を意味し、これもダメという事になってしまいます。

私は夫婦間の呼び方は当人が納得しているのであれば、第三者がとやかく言う話ではないと思っています。多様性が叫ばれいてる社会だからこそ「こういう言葉を使うのは男尊女卑だ」という考え方はむしろ多様性の否定になるのではないでしょうか。人はそれぞれの考えを持っているのですからそこは尊重されるのが多様性社会です。「自分が正しい」とばかりに相手を頭ごなしに否定するあり方はただ無用な争いを生むだけです。それに他人のプライベートに関心を持つのも無粋だと思います。このコラム書いている今、マスコミは連日芸能人の不倫を報道しています。「面白おかしく報道し、それを視聴者が喜んで観ている」他人の事に首を突っ込んで下品だなあと思います。勿論、これは私の意見であり他人に強要するものではありませんが、皆さんはどう考えますか?

第四語「お経」

仏教=お経というのは誰もが思うイメージだと思います。しかし、あの呪文のような文言は一体何なのか?そう思う人もまた多いでしょう。

お経は「お釈迦様の説法」です。サンスクリット語で「スートラ」と呼ばれるお経は「縦糸」を意味します。地球儀の縦の線を「経線」というのをイメージすればわかりやすいと思います。お釈迦様は自らの教えを「文字」で残しませんでした。お釈迦様が亡くなった後に弟子達が集まり、それぞれが聞いた説法をまとめ上げて文字化したのがお経です。その数は「八万四千の法門」と言われるほどです。(実際に八万四千あるのではなく、多数という意味です)日本の仏教の宗派は、拠り所とするお経の違いによって成立しているのです。例えば、浄土真宗は「浄土三部経(仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経)」、日蓮宗は「法華経」という具合です。

日本の仏教は大乗仏教と呼ばれ、インドから中国、朝鮮半島を経て日本に入ってきました。その過程でお経は中国語(漢字)にあてられたのですが、それをそのまま日本語読み(呉音読み)にしているので、聞いても意味がわからないのはその為です。(第一語「南無阿弥陀仏」にて「南無阿弥陀仏」の言語別の読み方を示しています。ご参照ください。)ですから、お坊さんはお経の一部分を現代語でわかりやすく解説をする「法話」をするのです。別の言い方をすると、お坊さんの仕事は、お経(=仏教)があなたの人生にどう関係があるかを繋げることなのです。お経は「縦糸」と言いましたが、縦糸がしっかり張っているからこそ、横糸(私の人生)を張る事ができるのです。

「お経を聴くと眠くなる」そういう方もいるでしょう。私は読経は「音楽」の一つだと思っています。そもそも音楽の意義とは何でしょう?「音を楽しむ」のもそうですが、読経の場合は「音によって楽になる」ものでもあるのです。つまり、読経によって気持ちが晴れる、落ち着くのも効果の一つです。かと言って、葬儀や法要中にずっと寝られてしまう事を手放しで喜べませんが。望ましいのはお坊さんと一緒に読経する事です。読経はお坊さんの専売特許ではありませんので。

仏教は死んだ人の為にあるのではありません。今を生きているあなたの人生を明るくする為にあるのです。お経は難しく感じるかもしれませんが、法話は極力わかりやすく話します。是非、お寺に足を運んで法話を聞いてみたらいかがでしょうか?八王子浄苑を管理する誓願寺では毎月第三木曜日の午後1時から法話会を開いています。お気軽にご参加ください。

第一語「南無阿弥陀仏」

突然ですがクイズです。「南無阿弥陀仏」は何と読むでしょう?「ナムアミダブツ」と答えたあなた、正解です。天台宗、浄土宗、真宗大谷派(東本願寺)ではそのように読みます。しかし、浄土真宗本願寺派(西本願寺)では「ナモアミダブツ」と読みます。さらに世界を目を向けてみると、中国語では「ナモアミトオフォ」、韓国語では「ナムアミタブル」、ベトナム語では「ナモアジダファット」となります。

「南無」はサンスクリット語で敬意、崇敬をあらわす「ナモ」を中国語に音写したものであり、漢字そのものに意味はありません。ヒンディー語の挨拶「ナマステ」の語源です。日本語では「帰依する」「拠り所とする」と意味が当てられます。

「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミターバ(無限のいのち)」「アミタユース(無限の光)」の音写で、いつ、どこにいてもこの私を見捨てることはないと誓われた仏様のことです。阿弥陀様の後背(こうはい、仏身から発する光明)にその形が似ていることから「あみだくじ」の語源になりました。

以上から、南無阿弥陀仏とは「私を見捨てることのない仏様を拠り所とします」ということになりますが、具体的にはどういうことなのでしょうか?私達は、自分の経験や知識を通して物事を判断します。しかし、その判断はいつも必ず正しいわけではないのに、自分では間違っていると気付きにくいものです。間違った判断をすることで事実から遠ざかる、これが苦しみとなるのです。「思い通りになったら幸せ」この考えは苦しみのかたまりなのです。そのようにしか考えられない私を見捨てないと仰った阿弥陀様を拠り所とすることによって、事実に背を向けている私の姿が明らかになってくるのです。

つまり、南無阿弥陀仏というのは単なる「唱える言葉」ではなく、「私が歩むべき生き方」を表しているのです。「絶対に勝つことのできない阿弥陀様と相撲を取ること」「この私の鼻がいとも簡単に折られること」それが南無阿弥陀仏であると仰った人もいます。南無阿弥陀仏と共にある日常は、「そうだったなあ」「愚かだなあ」と自分の本当の姿が見え、自然と頭が下がって心豊かになるのです。