第一語「南無阿弥陀仏」

突然ですがクイズです。「南無阿弥陀仏」は何と読むでしょう?「ナムアミダブツ」と答えたあなた、正解です。天台宗、浄土宗、真宗大谷派(東本願寺)ではそのように読みます。しかし、浄土真宗本願寺派(西本願寺)では「ナモアミダブツ」と読みます。さらに世界を目を向けてみると、中国語では「ナモアミトオフォ」、韓国語では「ナムアミタブル」、ベトナム語では「ナモアジダファット」となります。

「南無」はサンスクリット語で敬意、崇敬をあらわす「ナモ」を中国語に音写したものであり、漢字そのものに意味はありません。ヒンディー語の挨拶「ナマステ」の語源です。日本語では「帰依する」「拠り所とする」と意味が当てられます。

「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミターバ(無限のいのち)」「アミタユース(無限の光)」の音写で、いつ、どこにいてもこの私を見捨てることはないと誓われた仏様のことです。阿弥陀様の後背(こうはい、仏身から発する光明)にその形が似ていることから「あみだくじ」の語源になりました。

以上から、南無阿弥陀仏とは「私を見捨てることのない仏様を拠り所とします」ということになりますが、具体的にはどういうことなのでしょうか?私達は、自分の経験や知識を通して物事を判断します。しかし、その判断はいつも必ず正しいわけではないのに、自分では間違っていると気付きにくいものです。間違った判断をすることで事実から遠ざかる、これが苦しみとなるのです。「思い通りになったら幸せ」この考えは苦しみのかたまりなのです。そのようにしか考えられない私を見捨てないと仰った阿弥陀様を拠り所とすることによって、事実に背を向けている私の姿が明らかになってくるのです。

つまり、南無阿弥陀仏というのは単なる「唱える言葉」ではなく、「私が歩むべき生き方」を表しているのです。「絶対に勝つことのできない阿弥陀様と相撲を取ること」「この私の鼻がいとも簡単に折られること」それが南無阿弥陀仏であると仰った人もいます。南無阿弥陀仏と共にある日常は、「そうだったなあ」「愚かだなあ」と自分の本当の姿が見え、自然と頭が下がって心豊かになるのです。