第四語「お経」

仏教=お経というのは誰もが思うイメージだと思います。しかし、あの呪文のような文言は一体何なのか?そう思う人もまた多いでしょう。

お経は「お釈迦様の説法」です。サンスクリット語で「スートラ」と呼ばれるお経は「縦糸」を意味します。地球儀の縦の線を「経線」というのをイメージすればわかりやすいと思います。お釈迦様は自らの教えを「文字」で残しませんでした。お釈迦様が亡くなった後に弟子達が集まり、それぞれが聞いた説法をまとめ上げて文字化したのがお経です。その数は「八万四千の法門」と言われるほどです。(実際に八万四千あるのではなく、多数という意味です)日本の仏教の宗派は、拠り所とするお経の違いによって成立しているのです。例えば、浄土真宗は「浄土三部経(仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経)」、日蓮宗は「法華経」という具合です。

日本の仏教は大乗仏教と呼ばれ、インドから中国、朝鮮半島を経て日本に入ってきました。その過程でお経は中国語(漢字)にあてられたのですが、それをそのまま日本語読み(呉音読み)にしているので、聞いても意味がわからないのはその為です。(第一語「南無阿弥陀仏」にて「南無阿弥陀仏」の言語別の読み方を示しています。ご参照ください。)ですから、お坊さんはお経の一部分を現代語でわかりやすく解説をする「法話」をするのです。別の言い方をすると、お坊さんの仕事は、お経(=仏教)があなたの人生にどう関係があるかを繋げることなのです。お経は「縦糸」と言いましたが、縦糸がしっかり張っているからこそ、横糸(私の人生)を張る事ができるのです。

「お経を聴くと眠くなる」そういう方もいるでしょう。私は読経は「音楽」の一つだと思っています。そもそも音楽の意義とは何でしょう?「音を楽しむ」のもそうですが、読経の場合は「音によって楽になる」ものでもあるのです。つまり、読経によって気持ちが晴れる、落ち着くのも効果の一つです。かと言って、葬儀や法要中にずっと寝られてしまう事を手放しで喜べませんが。望ましいのはお坊さんと一緒に読経する事です。読経はお坊さんの専売特許ではありませんので。

仏教は死んだ人の為にあるのではありません。今を生きているあなたの人生を明るくする為にあるのです。お経は難しく感じるかもしれませんが、法話は極力わかりやすく話します。是非、お寺に足を運んで法話を聞いてみたらいかがでしょうか?八王子浄苑を管理する誓願寺では毎月第三木曜日の午後1時から法話会を開いています。お気軽にご参加ください。

第一語「南無阿弥陀仏」

突然ですがクイズです。「南無阿弥陀仏」は何と読むでしょう?「ナムアミダブツ」と答えたあなた、正解です。天台宗、浄土宗、真宗大谷派(東本願寺)ではそのように読みます。しかし、浄土真宗本願寺派(西本願寺)では「ナモアミダブツ」と読みます。さらに世界を目を向けてみると、中国語では「ナモアミトオフォ」、韓国語では「ナムアミタブル」、ベトナム語では「ナモアジダファット」となります。

「南無」はサンスクリット語で敬意、崇敬をあらわす「ナモ」を中国語に音写したものであり、漢字そのものに意味はありません。ヒンディー語の挨拶「ナマステ」の語源です。日本語では「帰依する」「拠り所とする」と意味が当てられます。

「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミターバ(無限のいのち)」「アミタユース(無限の光)」の音写で、いつ、どこにいてもこの私を見捨てることはないと誓われた仏様のことです。阿弥陀様の後背(こうはい、仏身から発する光明)にその形が似ていることから「あみだくじ」の語源になりました。

以上から、南無阿弥陀仏とは「私を見捨てることのない仏様を拠り所とします」ということになりますが、具体的にはどういうことなのでしょうか?私達は、自分の経験や知識を通して物事を判断します。しかし、その判断はいつも必ず正しいわけではないのに、自分では間違っていると気付きにくいものです。間違った判断をすることで事実から遠ざかる、これが苦しみとなるのです。「思い通りになったら幸せ」この考えは苦しみのかたまりなのです。そのようにしか考えられない私を見捨てないと仰った阿弥陀様を拠り所とすることによって、事実に背を向けている私の姿が明らかになってくるのです。

つまり、南無阿弥陀仏というのは単なる「唱える言葉」ではなく、「私が歩むべき生き方」を表しているのです。「絶対に勝つことのできない阿弥陀様と相撲を取ること」「この私の鼻がいとも簡単に折られること」それが南無阿弥陀仏であると仰った人もいます。南無阿弥陀仏と共にある日常は、「そうだったなあ」「愚かだなあ」と自分の本当の姿が見え、自然と頭が下がって心豊かになるのです。